毛の小話
好きな人と食事に行ったときのことである。
パネル式で注文する店だった。
まだお互いにちょっとドキドキするような距離感。
でもだんだんに信頼関係を築いてぶっちゃけ話もするような仲になっていた。
そんな時期の話だ。
料理を注文しようとパネルをタッチする私の指先がハタと止まった。
そこにあるのは紛れもなく、あの毛である。
「あの」毛である。
一瞬、目の前が暗転した気がした。
あまりに唐突千万、なんたる不覚。やられた。
こんなところでまさか心ときめく人を目の前に、堂々とお前なんぞに試されるとは!
はたして相手は毛の存在に気づいているのか。
胸の内で恥ずかしさと気まずさの勝手なバトルが始まる。
ここは自分からその存在に触れた方が絶対にいい。もう気づいていないふりはできない。
こういうときこそ自分に嘘なんかついてる場合じゃない。私は正直に生きたい。
にも関わらず、こちらは動揺のあまり初手からあまりにおよび腰。
いや、こちらの脅威をついてきた点においては毛の方が一枚上手、実は気付かぬうちに先手を打たれているのだ。しかしこちらも引くわけにはいかない。
目指す気概だけは出方を伺うボクサーのそれだ。もう潔くいこう。
引くなッ 諦めるなッッ!
やぶれかぶれになった私は遂に覚悟を決めた。
「ネェ…これ…、これはさァ…」
指先を見つめつつ、おずおずと相手を見る。
すると相手の視線がフッと「ブツ」に移動した。気づいていなかったようだ。
瞬間的に、なんとも言い難い共通認識が二人の顔を歪める。
「…なんでだよ…なんでッ…。なんでなのッ…!」
もうそれしか言えない。
とてもじゃないけど歪んだ笑いをこらえられない。顔を覆って脱力する二人。
店員さんに伝えるのもなんかアレだ。
「これ、どうにかしてください」
なんて店員として呼び出されてそこにヤツが鎮座していたら…。
私だったら赤面し石のように硬直する自信がある。
謝罪の気持ちと情けなさと笑いがすべて込み上げやるせなくなるだろう。
あれは絶対にアクシデント的なものだった。
誰かの故意によるものではないことはわかった。
そう、ヤツはマジで神出鬼没なのだ。油断もへったくれもない。
そもそも人体にくっついていたものだ。離脱すれば空気と共にフワッと軽く移動するものなのだから、どこにあろうが物理的には別段おかしいことはないのだ。
しかしブツがブツだけに予期せぬ場所で出くわした方は非常に困惑する。
私はたった一本のその毛に対して多大なる敗北感を感じていた。力なく席の紙ナプキンで触れないようにそっと包み、ふわっと視界から、いや脳内から消そうと努力した。念のため手は丁寧に洗った。
その後しばらくの間、その出来事がうら若き二人に強烈なインパクトを与え、なんとも言えない情けなさとどうしようもない脱力した笑いに包んだことは確かだ。
予想だにしなかった強敵の登場によってデート時の私の土壇場でのメンタルはおおいに試された。
経験値だけは上がった。
以降その店には行っていない。
しかし、しっかりと記憶に残された珍事件であった。