人生を楽しく愛したい!ブログ

人生遊び研究を本気でやってます。

不貞腐れファンだった自分の日記


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割と長く推し活している東京ディズニーリゾートが明日またアニバーサリーを迎える。

子どもの頃から単純にディズニーの世界に魅せられて私も30代後半になった。

情報告知の仕方はよりSNSに適したものになって、手に入りにくかった情報は嘘の情報も含めて大量に手軽に手に入るようになった。

少し前までの私は、それが少し嫌だった。

というか、かなり嫌だった。

どんどん自分の知らない手の届かない世界になっていくようでさみしかったのだ。

かなしいかな、ファンとしてぜんぜん可愛らしくない私は「なんだよ、ただの映えの場になっちゃうのか?大衆にウケちゃってさ」などと不貞腐れていた。

おいおい待て待て、古来からディズニーなんてマスにウケてなんぼの企業だろ、それこそが売りなんだよどんだけ自信過剰なんだ…とツッコミたくなるただの置いてきぼりなイジケモードのファンである。そんな風にテンションを老衰させてしまっていいのか!?

色んな気持ちとそれなりに同居した結果、今は割とほがらかであったかい気持ちだ。

気持ちも体も若くのめり込めた時期の、あの「好き」だけで爆進できるエネルギーもよかった。

でも、今の落ち着いた楽しみ方も好きだ。

全部の情報をくまなく追うことはもうしない、というかできないけど、その分ゆったり遠くから眺めて「明るいものはやっぱりいいねぇ」なんて思ったりしている。

エネルギーいっぱいに追いかけている人の様子もすごくいい。その若さと情熱!すべては熱意…そして購買力と拡散力!!ファンの鑑だ。そういうのが得意な方にはどんどんやっていただきたい。

昔も今も変わらずにいるマナーを守れないファンに「そのおっかけ方はちょっとないんじゃないの」なんて不満を覚えたりしつつ、結局それらも込みで愛していたりする。

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(↑子どもの目線に立って見ると身なりは貧しくても心がちゃんと王冠をかぶっているシンデレラなんだって)

 

明日4月15日(土曜日…!)に40周年を迎える東京ディズニーリゾートだが、パレードでは歴代絶対王者として君臨してきたキャラクター達が一斉にフロートから降りて地上を歩いていた。

そして、最近のアニメーションの主力キャラクター達が威風堂々とフロート上で喝采を受けるのをみんなで祝福している感じがあった。

私はイラスティガールとヴァネロペの強烈なファンなので感慨深い。

先人が神輿で担がれるだけでなく地に足をつけて歩き、若き映画スター達が新しくその座についていることが、なんとなく信頼感の象徴に見えた。

世の中には色んなことがあるけど、これからの新しい時代にいいところがきっといっぱいあると信じたい。

周年パレードからは必ず強いメッセージを受け取るのだが、今回私はそんな風に感じたな。

これまでにも、これからにもどちらにも問題は山のようにあり、そしていい面もいっぱいある。いい意見も、そうでないものも。

たぶん、その上で自然に心地よく続いていくものが自分にとってよいものなんだろうな。

そして私も、先人の素晴らしさを尊敬しながら地に足をしっかりつけて人生を自分の力で歩き、自分より若い世代の人達の希望を信じて生きていきたいな、と思う4月14日の夜であった。

明日は忙しい日になりそうだから、ゆっくり休もう。

おやすみなさい!

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こころから幸せを願ってるよ

 

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ふと、自分が幸せになりたいと思うのなら、誰かの幸せをこころから願うしかないのだと思った。

その人のために何か行動するとかそういうことじゃなくて、ただ本気で願うだけ。

だって、その人がその人生の中で幸せになってくれればそれだけ、私がどんどん幸せになれるということだから。

相手が「今が幸せとは思えないよ」と言うならば、やっぱりその人の幸せを本気で願う。

相手が幸せかどうかは、相手にしかわからない。

もちろん、自分が自然に行動したことで笑顔になってくれたならそれほどうれしいことはないし、苦しいことやつらいことがあるのなら、どうかそれが次の幸せへの架け橋となりますようにと思う。

相手が幸せになるのにこちらがどれだけ何をしたかは大きな問題じゃないのだと思った。

心地よい原動力じゃない気持ちで相手のために行動してもそれは誰のためにもならないかもしれないし、

気持ちを強くこめても“相手のためだけに”行動したらそれは単に“自分の安心のために”相手に変化してほしいだけなんじゃないかと思う。

相手本意で幸せになってくれることが幸せ、と思えるのが一番幸せなんじゃないかと思うのだ。

 

逆のことが自分にも言える。

私の幸せを本当にこころから願ってくれる人だったら、私がただ幸せに生きるだけで幸せにできるということだ。

だから、私の幸せを願ってくれる人しか私は幸せにできない。

私は、自分の人生を幸せに生きていきたいと思う。それをこころから幸せだと思ってくれる人が奇跡的にいるのかいないのか、それはわからない。わからないことが、この人生の醍醐味なのかもしれない。だって、きっと永遠にそれはわからないのだから。

わからないことがある方が、人生は面白い。

でも、私が幸せでいることで誰かが幸せなら、それはなんて幸せなことなんだろうね。

 

私にはさいわい、本当に幸せでいてほしいと願う人が何人かいる。お腹の底からそう思うのだ。

そういうのを祈りともいうのかな、やっぱり願うというのかな。

そんな人が胸の中にいることを誇りにも思う。それだけですでに満足なのに、その人がもしも今幸せならば、私はそれこそがこの人生のよろこびだ。

不幸やいじわるなことを願うのではなく、私はやっぱり幸せを願っていたいよ。そんなふうに思っちゃうくらい傷ついてひねくれることも、人生を生きてれば誰にでもきっとあるけどね!もちろん私にも。でも、やっぱり幸せがいいよね。

 

私の幸せは、私の中にある。

それは私が大切に思う人の幸せをこころから願うこと、それだけなのだ。

 

 

自分のための記録!会いたかったひと、だいすきなひと。

 

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2月14日から2月16日までの三日間。

今年はバレンタインデーからお誕生日に自分が欲しいものを自分に絶対与えてあげようと決めて過ごした。

話すとこころがあったかくなる大好きな人たちと会いたかった。愛がある人と触れ合う時間を自分に与えてあげたかった。

 

私には自慢できることなんかほとんどないのだけど、私のまわりにいる人のことならいくらでも自慢できる。

自己紹介は本当に得意じゃないけど「素晴らしい人たちに恵まれている人です」が一番いいかもしれない。そう思った三日間だった。

 

三日間で触れ合った人たちはいろんな人がいて、それぞれその人たちには接点がないのだけど内側に共通していることがある。

みんななにか芯のようなものがあって美しい生き方をしていて、自分自身のことも人のこともすごく愛している優しい人たちなのだと思う。

 

2月14日の夜は、行きたいお店のお兄さんのところ。とことんまで私がたのしく笑って話すのをめいっぱい笑って聴いてもらえた。こころがきらきらしてくる素敵なバレンタインデーだった。その人の笑顔はいつも私のいろんなことを肯定してくれる。真剣な話もバカみたいなくだらない話もいつも。幸せいっぱいの前夜祭になった。

 

2月15日は、誕生日。

ほがらかなお昼ごはんを過ごした。がんばってきたこれまでの道のりと、これから先の未来のお祝いをした。

そしたら午後には20年来の付き合いの大切な人からプレゼントが!

うれしくて舞い上がって、目の前でずっと歌って踊りながら開封しちゃった。

夜には小さなお客さま。その子のお母さんと一緒にうちまで来てくれて、美味しいたこ焼きといちごのケーキを食べてテンションあがっちゃった。

私を「すごく気が合う」なんて言ってくれるとても頼もしい子どもさん。純粋で一生懸命で、その子にはいつも希望がある。

私の愛しい小さな大切なひと。私の人生に欠かせない、とってもとっても大切な人。お手紙をくれた。自分のこと学校のこといっぱいお話ししてくれた。

その子が生きる未来がもっともっといいものになるように、絶対にそうしていこうと、こころに決めた。

 

そして2月16日。

この日はお友達が都内にいるということで会いに行ってごはんを食べる予定だったのに、まさかの、まさかのお祝いをしてもらっちゃった!

サプライズで祝ってもらうシチュエーションなんて本当に慣れてなくて、自分にこんなことが起きてるのが終始信じられなくて、幸せだった。

プレゼントもかわいくてTENGAのチョコレート!超かわいい、超うれしい。そしてirohaのローション、セルフプレジャーグッズ。うれしい、うれしい!自分の体たくさん愛して大事にしようと思う。

これだけでもイッちゃいそうなのに、そのあとにずっとずっと会いたかった友達がふたりもサプライズ登場してくれた。

びっくりしすぎてうれしすぎて、私の色々がもうダメだった、崩壊した。泣いた。みんないるからスッと堪えたけど、本当はもっと豪快に泣いちゃえばよかったかな、それくらいうれしくて頭がどうにかなりそうだった。

遠方に住んでいてなかなか会うことが叶わなかった友達。

まさかこっちに来てるなんて思わなくて、本物だよね!?となんども確認しちゃったけど紛れもなく本物だった。

そこにいた12人みんながすごく和やかに優しくあったかくただ居てくれて、新しく知り合えた人も含めてなんでこの人たちにはこんなに穏やかな愛が溢れてるのかっていつも胸がいっぱいになる。

大好きなメンバーと過ごせて幸せだ。

 

これが私の今年の誕生日の記録。

誕生日って、なんだか恥ずかしくて毎年あまり得意じゃないのだけど今年は勇気出していろんな人に伝えてみた。

そしたら、みんなが本当に優しくて愛をたくさん感じて、やっぱり私のまわりにいる人たちはそうなんだって再確認できた。

そう確認できたことが、私にとって一番の誕生日プレゼント。

勇気出してよかったね。思った以上だったね。

三日間ぜんぶうれしかったね。

いい人生にしていこうね。ありがとう、私と私に見える世界のすべて!本当に愛してるんだ。

記録はとりあえずここまで。

忘れたくないから覚えてるうちにとりあえず全部ダーっと書いた。

いつまでもこのまま胸にいて!

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久しぶりに書いたよー!読んでほちい!

 

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久しぶりのブログである!

2022年はメンタル面はおおむね想定の範囲内だったよ!

やる気が爆上がりしたりぷんぷんしたりショボーンとしたり死ぬのか?と思うほど気持ちが憂鬱な日もあったしそのうちハッピーになったりをふつうにやってきた感じだ。

それよりフィジカル面がヤバかったなー

特に10月からが思わぬ方向にいきなりヤバくなって全身麻酔で入院する手術までをやり遂げたの冷静に振り返ると自分のことすごすぎて笑えてくるよ。

脳内の90%が痛いで占められてるのに人と過ごすときは楽しくいたい自分もちゃんといて「痛い」って言いながらもなんだかんだ笑ってたのとか最高でした。

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(これは自分が買った寝込むとき用のお食事)

 

今回のこの件に関して自分が一番うれしかったのは、こういうときに些細な話も真剣な内容の話も聞いてくれる人が常に周りにいたってことやー!

どうでもいい話、私の趣味の話、くだらない映画の自己流考察や感想、人生の愚痴も!

私にとって親密な仲のすごく大切な人、時々連絡するのがいつも楽しい友達、友達というわけではないけど話をきいてくれる人、さりげなく気にかけてくれる優しい人たち。

自分の周りにはほんとにあったかい人が多くて、これだけはマジで恵まれてる人生だなといつも自分でビックリしています、ここだけが自分の人生の素晴らしいところといっても過言ではない。みんないつもありがとう愛してるぜ!こころから!マジで。

 

ほんとにうれしかったし驚いたのは、そっと「げんきー?」とか「体調どう?」「こういうの発見した!」とか他愛ないことでさりげなく連絡をポッ…とくれる人がいること。

自分は友人や知人が特に多い方ではないので基本的に人から連絡があるとは思って生活しておらず(自分がマメじゃないので)、入院中に誰かから連絡があったことは特に涙出そうでした。

いや、出たんだけどね、うれしくて

すごく苦しかったから!強調していうけど、すごい痛くて術後嘔吐とかすごくつらかったんだよぴえん

 

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(これは入院した日の病院のお食事!栄養あっておかずがいっぱいあって愛だね)

 

退院後の今の生活も楽になってきてはいますが、何かしらでふと声をかけてくれる人がいる、そういう気持ちを持ってる人がいる人生って素晴らしいなと、この世界を愛さない理由がマジでないなとおもったりしちゃう、そんな瞬間がこの経験を通していっぱいありました。

 

今回はたまたま自分が痛いつらいの時期だったけど、人のあたたかさっていつだって些細なところでちゃんと沁みるし、人ってそういう一面をもつ生き物だし、自分がそれを知ってるということがただうれしいなとおもう今日だよ。

久しぶりの文章だから超適当に書いているよ!

最近はまたSF系にハマりだしたからだいたい順調のサインだと思う!こういうモードに入るってことは、こころ元気な証拠!

そして、私をいつもこのように居させてくれる世界ありがとう

そこに住んでる人たちありがとう

イヌとかネコチャンもありがとうかわいいね動物大好きだよ、

それでもって私と何かで知り合い、これまでにどんな形でも関わってくれたすべての人、ありがとう

きょうはここまで!マタネー

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忘れない、忘れたくない

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冷たい医療器具との触れ合いが連日に渡り、生身の「私の中」に入り込み続けると、その先にいる人のぬくもりが伝わることがある
わずかな指の力の入れ方とか、そこにこもった差し出し手の気持ちのトーンとか

だから人と人がからだで触れ合う時は、あたたかくやさしく在りたい
器具を通してでも伝わるものなのだから

社会の状況的に今はあまりないかもしれないけど、握手するときや日常で狭いところを通る瞬間とか、些細なときにもね

からだが触れるわけじゃない間柄や状況なら、会話やそこにいる感じそのものでそれが伝わるといいな

あったかい体温をもったにんげんのすばらしさ、生きているからあるもの

生きてしか、伝わらないもの

とてつもなく尊くて、凄まじいこと。

 

 

 

“CHEF”(シェフ)

 

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映画や音楽の邦題サブタイトルがあまり好きではない。

補足説明しないとわからないと思われてるのか?と軽くバカにされた気持ちになってしまう。

でも、合ってるのか合ってないのかいまいちピンとこないサブタイトルを「邦題らしいよねぇ」と笑えるからこれはもしかしたら好きということなのかもしれない。

 

"CHEF"この映画がすごく好きだ。

気持ちが弱ると繰り返し観ているもののうちのひとつである。

まず、料理の美しさ、映像美は言うまでもない。完璧な芸術を感じる。

料理する、食事するというテーマに関しては思い入れがあるのでその点だけで見入ってもよいくらい、ただ素晴らしい。

音楽もラテンノリなものが多く終始最高、ここでまず元気になれる。

 

「アイアンマン」「カウボーイ&エイリアン」など、アメリカの大衆向け大作映画を手がけたジョン・ファヴロー監督が自ら出演する作品でとてもかっこいい。

こういう大人を求めてた!という大人だ。

スルースキルがまるでなくて、ぜんぜん冷静じゃない。

下品な言葉使いが日常茶飯事で、あと先をまるで考えずにキレてしまう大人。

ちゃんとダメな人で、でも「ここぞ」ってことだけは絶対に譲ることができない芯のある大人。

子どもの方が大人びて見えるくらいの振る舞いをする大人。

こういう情熱的な生き方をする人を本当にカッコいいなと思う。

そして、このキャラクターが持つ最大の魅力は自分の経験に絶対の自信を持ち、その佇まいがとにかくセクシーである点だ。

うっかり恋する相手はこういう人でなくちゃ!と思ったりもする。

綺麗にまとまった良き大人をできるのは、そもそもが相当に善い人だからなのだろうなと思う。それも本当に素晴らしいのだけど、私はこの映画の主人公のような人に現実でも強く惹かれてしまうところがある。

 

「アイアンマンシリーズ」がファミレスのグランドメニューだとすると、この「CHEF」は隠れた美味レシピというイメージだ。

 

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私はこの作品における「シェフ」は映画監督自身を、

「料理」は映画作品を、

「ブログの酷評」「SNS上の無責任で軽はずみな評価」を観客側、社会の声を表すものだと思って観ている。

「うちはレストランだ。固定客は馴染みのメニューを望んでる。アートをやりたいなら他所でやれ」という経営者。

自分のやり方でいきたいなら出て行く他に術はない。

「ここを出ても、どこに行っても“経営者”はいるわ」というマネージャーの言葉が刺さる。

どこに行っても結局「誰かの」やり方になってしまうのはどの業種にいても一緒なのだろうなと思う。

「そのままの自分」でいることと「利益を出せる商売をすること」は相性が悪いのだという気持ちにさせられる。

 

観るほどに「映画作品でこういう思いを重ねてきまくったのだろうな、この監督は…」という気持ちが沸々と湧き起こってくる。

アイアンマンの新作を断ってまでこの作品を手がけたのだと言うから、そうなんだろうと思う。

 

ツイッターがどういうものかもわからない主人公に対してソーシャルメディアをポンポン使いこなす子どもは怖いほど聞き分けがよい。

ちゃんと行間を読んでいるし、大人の言わんとすることを察して諦めるのが異様に早い。

 

この映画を通して観るのは親子愛とかそういうことだけではなくて「お互いを知ろうとしながらただ一緒に過ごすこと」の大切さだという気がする。

一緒に過ごすための行為は料理にもSNSにもなり得る。

無作為に時間を過ごすのではなく、その行為を通して相手を知っていくためなら、きっとなんだっていいのだ。

そこにあるのが相手への敬意である限り、未知のものは興味関心へと変化し、新しい自分と相手を知るための術になるのだと思う。

そして、面白い、好きだと思う気持ちこそが人がなんと言おうが純粋に強いのだということ。

個人的に、やはり料理はいいね。

私は人と“一緒に料理する”ということにはものすごく強い力があると常々思っている。

あと、元妻の実家が太くて元妻がウルトラ級の美人で協力的というのがアメリカン・ドリーム感があって夢だなと思う。

やたらにリアリティにだけ振ってないところにコメディ要素があって良い。

強力なパトロンがいるってやはり強い。

その先がマイアミのキューバサンドというのがまた味があって、お金持ちの人が旅して手にするホームメイドを感じられる設定がいいなと思う。

 

追記

Netflixにある「ザ・シェフ・ショー」は夜中に観てはいけない。

 

・アイアンマンでロバート・ダウニー・Jr.とスカーレット・ヨハンソンと共演し、この映画で監督と再び共演しているのも面白い。

 

 

自分が掲げるのれんについて(ちょっと長文になってしまった)

 

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自分はLGBTQといわれるカテゴリーの中のなんらかに属するのだろうが、そう自称するのは得意ではない。

とはいえ、隠すことでもないなとも思う。

なぜそれがあまり得意じゃないかというと、自分はその側面だけで生きているわけじゃないからだ。

これはどんなことにでも言える。

自分も含めて、どんな人にも社会生活を送る上で困ることが色んな面でそれなりにある。

誰だってなんらかの当事者なのだ。

私は、その特徴のひとつを自己紹介に使ってしまうと

「何何に特徴があって、アレソレでお困りの私」という固定したイメージに繋がってしまうのがどうも腑に落ちない感じだ。

そういうわけで最近、ブログタイトルもひっそりと変えたみたのだが、やってみて思うのはやはり「しっくりこない」である。

タイトル自体ににしっくりこないわけではない。どこか後ろ向きな気持ちで隠れるように変えた気がするのでそこにしっくりこないのだろう。

物事に対する姿勢として、「不安な気持ちからくるもの」はできるだけ選ばないようにしようとは思っていたけど、今回のタイトルの件はどうだったのかな。

ある意味では自分を守るという優しい動機からの行為だったとも取れる。

しかしある意味ではちょっと自分を引っ込めておこう…みたいな、臆病な気持ちからだったかもしれない。

 

本当は、誰にどう思われようと私が持つ考えや好みは堂々としてもよいはずなのだ。でも、今回の私は引っ込めることを自ら選んで取ったらしい。

それも全く悪いことではない。でも振り返ってみたい。

 

考えてみると、性にまつわることだけでない。

私自身の弱点や、それが生活上の障害となっていることについてもだ。

臆病な気持ちの中には、きっと自分自身だけに対してだけじゃなくて、私の周りの人に迷惑をかけるのではないかという気持ちが少なからず入っている。

 

「こんな人と繋がってるのかぁ」と、

私の存在で、相手が誰かにマイナスな印象を持たれてしまうことが何より怖いのだと思う。

私はなんとなくひっそり静かに生きることを望んでいるが、その反面どこかで主張したくてたまらない自分がいることも自覚している。

それがきっとこのブログの果たす役目だったのだと思う。

自分としては、素晴らしいことだと思う。

 

人の受け取り方はこちら側からはコントロールできない。

だから、私が私の生き方に胸を張って正々堂々と自信を持っていくしかない。

誰にどんな印象を与えようとも、私自身が誠実に一生懸命生きている限りそれは私にとっては輝かしい一面であることに間違いないからだ。

 

絶対に誰も傷つかないなんて無理なことだと思う。

だから、私もこれからまたどこかできっと傷つくし、これまで気づかないうちに誰かを傷つけてきたのだろう。今も無自覚にそんな現象が起きてしまっているかもしれない。

そんなことにはならないように気をつけようと思っているのに、間違ってしまうこともある。

そして相手の受け取り方はこちらが知るまではわからない。

 

だから、出来るだけ私は自分に恥じることのないよう、自分の中のことについては堂々とやっていきたい。

自分が間違ったことをして相手から傷ついたと伝えてもらったときには自己嫌悪がとても痛く苦しいけれど、見ないフリをしないで「ごめんなさい」とこころから伝えられる自分であれますように。

ゆるしてもらうためじゃなく、自分の間違いに対する責任として。そしてまた新しく一歩ずつ、誠心誠意で生きていける自分でありたい。

 

とても勇気のいることだけど、鎧を着て防衛して生きていくのではなく、無防備に生きていけたらな。

そんなことを思います。

 

 

 

 

 

換気扇と恋の思い出


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夏場の換気扇は気だるい恋の温度を思い出させる。

非常にアンニュイな書き出しになってしまったが、例に漏れずこのブログにそんなに大したことはない。

 

今よりも10歳ほど若かった頃に付き合っていた人は理系出身で実に大人な雰囲気だった。

実際に自分よりも年上の人だった。

今の私は当時のその人の年齢を超えているがそれでも精神的にすごく成熟した人だったなと思う。

ウィットに富んだユーモアを静かに放つような人だった。

私は基本は「オナラぷーぷー」くらいのことで笑える人間だ。

ズボンの中でオナラをしてから片方の足首ずつ計測をしたらどちらか一方の足首出口にニオイの強度は偏るのか?などと馬鹿げた質問をしてはマジなモードで答えてもらってその都度、爆笑していた記憶がある。

理系ジョークは頭が良すぎてパンチが強い。

知らない世界の不思議がたくさんあり、少しずつ色んな新しいことを知るのが楽しかった。

それからの恋愛経験を思い返しても、夏場の換気扇はやはりセットになって色々なシーンが蘇る。

一緒に料理をしたり、ちょっとのすれ違いで気まずくなって部屋から一人が換気扇のある方へ行ったり、仲直りしたくて自分もそっちへ行ったり。

 

換気扇を回しても残る、人の家の生活の匂いが好きだ。

 

目が合うとどうしていいかわからなくなるので照れ隠しのために「ちょっとオナラしてくるわね」などと言って換気扇のあるキッチンに行く。てんでダメだ。自分にはムードというものがない。毎回そんな自分に途方に暮れてしまう。

好きな人を前にして、スマートに振る舞える人がいつも羨ましかった。

でもそんなことで笑ってくれた相手ばかりだった。間違いなく、これまでに交際した人たちはみんないい人である。こんなろくでもない人間と付き合ってくれた交際相手達には尊敬の念を禁じ得ない。

私は、自分で振り返っても決してロマンチックな恋人ではなかったと思う。でも、等身大の自分自身でいられた時間が確かにあり、どの期間においてもいい経験をしたもんだなぁと思える。

夏も終わりに近づいているからか、時々ノスタルジックに「あの人が私を思い出してくれることはあるのだろうか」なんて思う。

 

なくてもいいか。

 

こっちもオナラと換気扇の記憶だしな…なんてカッコつけてるようでかなりカッコ悪い、よくわからないことを言って終わりにしようと思う。

おかげさまでソロ活がかなり充実しており、今の生活もこれはこれでとても楽しく人生がきらめいています。

これからも最高の独身ソロ生活を極めていこうと思う。

 

 

 

 

 

子どもの頃のトラウマ、ユニコ魔法の島へ

 

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手塚治虫原作「ユニコ〜魔法の島へ〜」

この映画は小さい頃VHSに録画したもので何回も観た大好きな物語です。

「ユニコ」は第一作目もすごく好きなのですが、この続編はかなり色合いが濃くなっています。

いわゆる「悪役」であるククルックがすごく不気味で怖い。

子ども心にものすごくトラウマチックな衝撃を受けました。

見た目も動きもセリフもやることも何もかもが怖い。

人間をどんどん生き人形にしていくところは悪夢に出るレベル。

 

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ククルックの行動の原動力は「人間への恨み、怒り」です。

憎しみの気持ちそのものがククルック。

 

手塚治虫の作風のひとつである「常に形が一定しないで、いろいろなものに変わる」ククルックの動きはなんともクリーピーで嫌悪感すら覚えます。

血も涙もない悪行をはたらきながら、ときどき楽しんで人形を愛でているところすら気持ち悪い。

そして、人間に嫌われると喜ぶ様子を「失礼だけど不気味だと思うわ」というチェリーの言葉に狂喜乱舞する様子もとても怖いです。

完全に主人公ユニコを食ってしまうパンチあるキャラクターです。

 

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それに対して、ユニコはずっと決して揺らぐことがない愛の存在として描かれています。

どんなに一人ぼっちになっても人を愛することを諦めないユニコ。

 

ユニコとククルックのラストはただ美しいの一言に尽きます。

あんなに醜い悪役なのに、ただ美しく涙が出てきます。今ではククルックは自分が知る限りで最も美しい悪役のうちのひとりです。

 

「おまえが悪いのさ。やさしいことを急に言うから変になってしまった。あたしの魔法は恨みの塊なんだよ?人を憎むからこそあたしは強いんだ…」

 

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小さい頃、絶望するほど怖かったククルックのラストを見たとき「なんだ、呆気ないな」と思っていました。「優しくする、たったそれだけ?簡単じゃん」と思ってた。

 

でも、大人になるとその難しさがよくわかります。

心を蝕むほど、その人のすべてを変える痛みと苦しみに本当の意味で寄り添えるのは、優しさなのだとユニコが教えてくれる気がします。

難しいことはさておき、子どものこころに戻ってみたい。そうすると傷つきを癒せるのはやっぱりたったひとつ、人の優しさや愛に触れることだけなのかなと思います。

恨みが強ければ強いほどそれを受け取る相手も辛く傷つくから、愛で接することはそんなに容易いことではないなぁと日々痛感します。

でも、子どもの頃は「なーんだ、優しくしてみんなで仲良くすればいいだけだ、簡単なことじゃん!」って思ってたはずなのです。

 

たぶん、今の私を作り上げる土台の一個になっただろうなと思うほどこの作品は幼かった私に強烈なインパクトを与えました。

生き人形のシーンがとにかく不気味で怖くて仕方なかったので。本当に夢に見ました。後ろで奏でられているフルート演奏が美しいのがまたより一層、不気味さを引き立ててる。

怖くて仕方なくてすごく強烈な記憶として残った点がよかった。

そして、大人になって振り返って出会えてよかった物語だなーと思っています。

 

あと、ただただユニコがかわいい。

ユニコーンになって飛ぶシーンも普通に泣けます。

 

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ただいま、東京。

 

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子どもの頃、私の世界は家から学校、近所の公園や森までだった。

半径5キロ圏内が、私の世界のすべてだった。

 

そして私は、中学高学年から高校に差しかかる頃、ひそかに電車で東京に行くようになった。理由は色々あるが、東京にはとにかくなんでも揃っていると思ったのだ。果てしない冒険心と大人にみつかる怖さの入り混じった奇妙なワクワクだった。

 

実際、その時の私が望むものは東京になんでも並んでいるように見えた。お金がなかったのでほとんど手にすることはできなかったが、少ないおこづかいを握りしめて買える範囲の「新しい物、珍しいもの」を戦利品として持ち帰った。

 

思春期は我ながら行動的な時期だったので、たった一人で大きな催し物などにも参加した。

今思うと無謀な挑戦もたくさんあったが、その無謀さを褒めて認めてくれる大人も少しばかりはいた。

それが功を奏したのか、大成したい夢ができた。

 

そこからは夢中だったなと思う。

 

ほどなくして私はその夢中な物事の中で大きな挫折を味わった。これがなくなったら人生はどうなるのかとお先真っ暗な気持ちになった。

 

東京にはなんでもあるけど、自分は何も手にすることが出来なかったな、と思った。

 

あれからどれくらい経っただろうか。

 

今はまったく違う気持ちで、違う場所から東京を見ている。

行き道では線路の向こうに咲く景色をみつけて。

帰り道には小さなお菓子を持って。

 

ぜんぜん東京の人なんかではないけど、行くとなぜか「ただいま」と言いたくなる。

ただいま、また来たよ。

私の挫折の街。

だけど、過去の希望とがんばりの思い出がいっぱい詰まった街。

 

子どもの頃にはわからなかった気持ちを持って行ったり来たり、元気にそれなりに、あくせく過ごしている。

電車に乗ってしばらくして見上げれば、そこは東京だ。首が痛くなるほど見上げてもてっぺんが見えない高層ビルが立ち並び、どこもコンクリートとガラス張りで室外機の吐く息が暑苦しい東京。

みんなが汗拭き汗拭き、急ぎ足の東京。

でも、少し都心から離れると穏やかな顔をした商店街や蔦の緑の溢れる昔ながらの屋根が続く東京。

 

お月さんが綺麗な、多摩川のある愛しい東京。

 

また行くね。

そのときは「ただいま、夢の街」って言うからぜひとも「おかえり、よく来たね」って言っておくれ。