自分が掲げるのれんについて(ちょっと長文になってしまった)
自分はLGBTQといわれるカテゴリーの中のなんらかに属するのだろうが、そう自称するのは得意ではない。
とはいえ、隠すことでもないなとも思う。
なぜそれがあまり得意じゃないかというと、自分はその側面だけで生きているわけじゃないからだ。
これはどんなことにでも言える。
自分も含めて、どんな人にも社会生活を送る上で困ることが色んな面でそれなりにある。
誰だってなんらかの当事者なのだ。
私は、その特徴のひとつを自己紹介に使ってしまうと
「何何に特徴があって、アレソレでお困りの私」という固定したイメージに繋がってしまうのがどうも腑に落ちない感じだ。
そういうわけで最近、ブログタイトルもひっそりと変えたみたのだが、やってみて思うのはやはり「しっくりこない」である。
タイトル自体ににしっくりこないわけではない。どこか後ろ向きな気持ちで隠れるように変えた気がするのでそこにしっくりこないのだろう。
物事に対する姿勢として、「不安な気持ちからくるもの」はできるだけ選ばないようにしようとは思っていたけど、今回のタイトルの件はどうだったのかな。
ある意味では自分を守るという優しい動機からの行為だったとも取れる。
しかしある意味ではちょっと自分を引っ込めておこう…みたいな、臆病な気持ちからだったかもしれない。
本当は、誰にどう思われようと私が持つ考えや好みは堂々としてもよいはずなのだ。でも、今回の私は引っ込めることを自ら選んで取ったらしい。
それも全く悪いことではない。でも振り返ってみたい。
考えてみると、性にまつわることだけでない。
私自身の弱点や、それが生活上の障害となっていることについてもだ。
臆病な気持ちの中には、きっと自分自身だけに対してだけじゃなくて、私の周りの人に迷惑をかけるのではないかという気持ちが少なからず入っている。
「こんな人と繋がってるのかぁ」と、
私の存在で、相手が誰かにマイナスな印象を持たれてしまうことが何より怖いのだと思う。
私はなんとなくひっそり静かに生きることを望んでいるが、その反面どこかで主張したくてたまらない自分がいることも自覚している。
それがきっとこのブログの果たす役目だったのだと思う。
自分としては、素晴らしいことだと思う。
人の受け取り方はこちら側からはコントロールできない。
だから、私が私の生き方に胸を張って正々堂々と自信を持っていくしかない。
誰にどんな印象を与えようとも、私自身が誠実に一生懸命生きている限りそれは私にとっては輝かしい一面であることに間違いないからだ。
絶対に誰も傷つかないなんて無理なことだと思う。
だから、私もこれからまたどこかできっと傷つくし、これまで気づかないうちに誰かを傷つけてきたのだろう。今も無自覚にそんな現象が起きてしまっているかもしれない。
そんなことにはならないように気をつけようと思っているのに、間違ってしまうこともある。
そして相手の受け取り方はこちらが知るまではわからない。
だから、出来るだけ私は自分に恥じることのないよう、自分の中のことについては堂々とやっていきたい。
自分が間違ったことをして相手から傷ついたと伝えてもらったときには自己嫌悪がとても痛く苦しいけれど、見ないフリをしないで「ごめんなさい」とこころから伝えられる自分であれますように。
ゆるしてもらうためじゃなく、自分の間違いに対する責任として。そしてまた新しく一歩ずつ、誠心誠意で生きていける自分でありたい。
とても勇気のいることだけど、鎧を着て防衛して生きていくのではなく、無防備に生きていけたらな。
そんなことを思います。