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命がけで守りたいもの

 


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私にとって、「命をかけている」と言えるくらいに一生懸命になるものは「言葉」をあつかうことです。

 

もしかしたらこんなことを言うと「何を大げさな」と、笑われてしまうのかもしれません。

それでもいいのです。

何を隠そう、自分でも少しだけ笑えてきます。

そんなにも一生懸命になっている自分を愛おしくおもい、やさしい笑顔を向けられるのです。

 

「言葉」には「気持ち」が込められていると思います。「気持ち」にはその人の生きざまと言えるものが表れる気もしています。

 

今は色んな言葉に対して、よりシビアな方が多いかもしれません。

しかし私は「これはよい、これは古い」とあまり気を張りすぎないようにしようと思っています。

 

それでもやはり、誰かとやり取りするときには結構気をつけます。

場合によっては「あっ、どうして今の言い方が口から出たのかな?」という日もあります。

それはもう引っ込めることはできません。

受け取った相手にとり、その言葉がどのようなものとなるかはこちらからはわかりません。

けれど、「あっ」と思う瞬間はやはりあるのです。人間ですから、そういったことはきっと誰にでもあるのかな、と思います。

 

だから私は、どんな言葉を発するときも、或いは受け取るときにも「どういった気持ちがこめられた言葉なのか」を感覚的に感じる自分を大切にしたいと思っています。

 

「もういいよ。」

という言葉も、投げやりな気持ちで発しているのか、受け容れたよという気持ちから発するのかで、まったく印象が違います。

「大丈夫だよ。」

も同様かなと思います。

 

その気持ちが投げやりな気持ちからのものか、受け容れている気持ちからのものか、それすらもどちらでも構わないと思います。

 

その時にその人がそう思った「気持ち」から発せられた言葉なのだ。

ただ、それだけなのだ。と思うのです。

 

だから私は「これっきりの命だ、これが最初であり、最後なのだ」と思えるくらいに熱を込めて話すときもあります。

そうすると、自然と涙が出てきます。

一生懸命にやっても、脱力してゆるく過ごしても、自分の中に愛があるなと思えると気持ちが穏やかにじんわりとしてきます。

 

それは紛れもなく、今生きている私の感情そのものを形にしている瞬間だからです。

それが「伝わった」と思えると「生きている」と感じられます。言葉にならないおもいが胸に押し寄せてきます。

 

そんな風に生きていると、何の音もない無言の空間の中でさえ「誰かと私は伝わり合えている」という気持ちを味えるときもあります。

 

結局、言葉は形に過ぎません。

しかし、だからこそ私は目に見えない気持ちを形にして発するときには全身全霊と言えるくらいに丁寧に向かい合いたい瞬間があるのです。

「私の生き方がそこにある」と確信しているからです。

 

「そんなこと言ったらそのうちに何も言えなくなってくるよ。そんなにいつも一生懸命にはやらないよ」と仰りたくなる方もいるかもしれません。

その通りだと思います。

だけど私は、愛をもってつかう言葉だけで生きていける世界もあると、この人生を自分が生きてみてそう思ったのです。

だから、そうしてみたいだけなのです。

いつもできるとは限らないけど、そうしてみたいと思っています。

 

私は、この愛のある世界を命をかけて守っていきたいと思います。

これから間違うこともたくさんあるんだろうなとも思います。

だからこそ、誰かの全身全霊をかけた言葉やその中にある気持ちをきき、間違ったら正せる自分でありたいです。

 

そこを大切にする人生を、ただ守っていきたいと思います。

自分の人生を愛情をこめて、生きていきたいと思います。