体ごと生きる
この文章を、私は体ぜんたいでぶつかって書いているだろうか。
今この場を、私は体ぜんたいで過ごしているだろうか。
私の好きな戯曲の中で、主人公が相手役に
「体ぜんたいで物事にぶつかったかどうか」を問うシーンがある。
相手役が目指すのは物書きだ。
世の中には、物を書く人はたくさんいる。
何かを創造する人もたくさんいる。
けれど、そのたいていが手先だけ動かして書いている。大切な体を引っ込めて、頭だけちょっと突っ込んで書いているのだと主人公は語る。
体ぜんたいでぶつからなくてはね、と。
これなのだ。
私がいつも自分自身に対して思うことは。
そのようにして体ぜんたいで過ごしていると、
心の中で本当にフィルムがまわりだすのだ。
言葉や声にしなくても、胸の奥でゆっくりと確実に、そのフィルムは加速して人生のさまざまなシーンを映し出す。
次第にその時の感覚が全身を巡ってくる。
喜び、かなしみ、悔しさ、恥ずかしさ、うれしさ、あたたかさ。
自分が全身全霊で向き合ってきた体験、不思議な現象、一見なんともないように見える時間の奇跡、素晴らしさを再体験する。
当たり前ではないのだ。今私がここに生きているのは。たまたまなのだ。
その凄まじさ、強烈さ、そして生きることへの覚悟と恐怖がなんども甦る。
ちゃんと生きていかなくてはならないのだ。
責任をもって、私が私を幸せにしていかなくてはいけないのだ。他に誰ができると言うのだろう。
この人生を生きているのは私なのだから、私がそうするだけだ。
だからもう、自分を無駄にはできない。
懸命に生きたい。命のかぎりに、自分を愛して生きていきたい。
私は、もうそのようにしてしか生きられない。
かなしかったことを
人から笑われたときのことを
辱められた思いを
理想通りになれない歯痒さを
自分を何もコントロールはできないのだと思い知る無力さを
それを自覚した時の自分のなんと小さなことか。なんども、違う場面で形を変えてはそんな体験をする。
でもきっと、それが人生なんじゃないか。
わからないけど、もしかしたらずっとその繰り返しなんじゃないだろうか。
そしてその弱さと情けなさ、それこそが絶対に自分にとって代わりのきかない、かけがえのないものなのかもしれない。
私が絶対に守り抜いて、なによりも大切にしなければならないものなのだ。
世界が次元のない奈落の広がりに見えることもある。その闇に圧倒されて足がすくむ日もあるけれど、それも大切なのだと思えば安心して絶望できる。この上なく安堵に包まれ、脱力できる。
誰かに「疲れたね」と言える。
人生が上出来かどうかなんて、関係ない。
だから私は、いつも自分自身に問う。
今この瞬間に、私は体ぜんたいで居ることができているだろうか。やれるだけのことはやっているだろうか。
…よくやっている。
手先や足先、頭の先だけで生きたくなる日もある。
でも私は毎日へとへとになっても、やっぱりこっちを選ぶ。
よく眠り、よく食べ、驚いて感動して泣き、そしておおいに笑い、よく疲れ、
そこに人の優しさと希望を見出す。
世界は広いのだと鼻の穴を膨らませて布団の中で心地よく満足のため息をつく。
そして新しい気持ちになって、安心して明日も脱力するのだ。
私の世界は、底抜けに明るく不安にも満ち、とても広い。まだまだ私は世界を何も知らない。だからすごくたのしい。
私が今関わっている物事の中に中途半端などない。
私はこの体ぜんたいで、生きていきたい。
全身で。