格好つけたい
怖れずに書き出すと、割と好き放題やってきた人生だと思う。
だいたいにおいて自分の人生史にそんなに大したことはないのだが、大したことだと思い込みたい節はいつでもあるようだ。
26歳くらいのとき、自分を賢いと思いたがりどうしてだかやたらとデカい辞書を買ってしまった。
調べたい語句がある場合にインターネットなどに頼らずページをめくる古風な自分に酔いしれたかったものと思われる。
中途半端にサブカル好きを彷徨っていた自分らしい、実に浅はかな発想だ。
その後ほどなくして辞書は予想通りに単なる重量のある置物と化し、部屋の背景となった。
何かの役に立っているとすれば、仮にzoom画面などに写った場合にほんの少しでも知的に見えるかもしれないという淡い期待だけである。
しかしそこは流石の偽サブカル女なので、知的に見せたいために背景に辞書を置いている、あまつさえそんな自分を演出するために高そうな辞書を買ったんだとバレてしまうことがどうしようもなく恥ずかしい。
よって、現在に於いてその辞書は決して画角に映ることのない部屋の隅で物言わぬ沈黙の置物としての役割を果たしている。近ごろ日本語の調子がおかしい時が増えているので今こそ実用的に使うときかもしれない。
辞書の例はまだいい方で、ある時は詩人の顔をしてちょっといいノートにポエムや下手な絵を描き殴る、ある時は思想家よろしく考えに耽って誰かに話したくて仕方がなくなる。しかしそこまで詳しく語れるわけでもないので次の興味が湧くまでしばらく悶々とした膠着状態が続く。
いつまでも格好つけたがりな自分はどこにでも顔を出すのだろうと思う。もっとヤバイやつもいっぱいあるが今は思い出を直視できない。
ワァァと大声で叫んで枕に突っ伏したいことがこの人生に山ほどある。なんか本当すいませんでしたウワァァー!みたいな感じでとてもやってられない。あたしゃ情けないよと肩を落とすがそれが自分なのでもうどうしようもない。
生き方についてもそうだし恋愛の失敗なんかはそのオンパレードである。これは結構恥ずかしい。
格好つけたところでうまく格好がつかないタイプだからこの際泥臭く生きていきたいところだ。
格好悪く恥ずかしい部分にこそ、私の楽しいところがあるんじゃないかと最近は思う。
これからも、堂々と恥をかいて生きていきたい。