平成偽サブカル女のその後
少し恥ずかしい話だが、私はだいぶサブカル好きに酔った思春期を過ごしたように思う。
とはいえ、いわゆる深いサブカルチャーにどっぷり浸ったわけではなく、サブカルにちょっと興味を持った私、程度の浅瀬でぷかぷか浮かんでいただけだ。
そのニワカ感にすごく自覚もあったので、とてもじゃないけどその部分は人には言えずに過ごしていた。
学生時代は国語が好きで学校の図書館が救いだった。
図書館は夏は涼しく冬は暖かく、近くにトイレもあって快適だ。
お金がなくても大丈夫な点もすごくいい。
実家を飛び出したいけど家出する勇気もなく、
どこにいたかと問われても堂々と答えられる。
そんな場として図書館は10代の私には本当に必要な場所だった。
図書館には色んな世界があった。
借りて帰って誰かにタイトルを見られるのは絶対に嫌だけど興味をそそるジャンルが
「どうですか」と控えめに、でも威厳を持って並んでいる。
「いいのかな」と思いドキドキしながら手に取る。
この瞬間を誰かに見られているかもしれない。そこにもスリルがあった。
「図書館にある本だもん」とか「ジャンルは正当なものじゃん」とか色んな気持ちと共にその世界を手にとって、少しずつ知っていった。
詳しいことは何もわからないけど、こんなことを本に書く人が世の中に本当に存在するのかな、と疑いたくなるようなものもいっぱいあった気がする。
本当は図書館にある一冊だけがこの世に存在していて、出版されたことはないんじゃないかしら。
誰にも見つからないように世界にひとつだけの本を作って、誰かが読んでくれたらとそっと図書館に隠すように他の本と並べて、ちゃんと誰かが読んだかどうかひそかに書いた本人が貸出カードを確認しに来てるんじゃないかしら。
そう思うほど、大人を前に堂々と話すには恥ずかしい心の中を代弁してくれるような本。
内容はともかく、その感覚が記憶に残っている。
幸か不幸か努力家ではなかったので興味をもっても一つのジャンルを研究するまでには至らず、おかげさまで何の専門知識もないままの浅い人間が出来上がった。
詳しくは何も語れないけど「その感じなんか知ってるかも!興味はあるよ!」とだけは言えるジャンルが幾つかでも出来たのが収穫だ。
けれどこの現代、なんだか「活動家」か「アウトサイダー」の二択しかない気がするのだ。
そこまで堂々と声をあげられるような知識のある人間ではない。
かといってとんでもない変わり者を自覚して潔くアウトローになりきれるほどの格好良さも持ち合わせていない。
大人になって、私は結局どこにも所属しない曖昧な境界線上をまたもやぷかぷかするようになった。
あの図書館の本は本当はすごい本だったのかもしれない。知識がないために今更それを確認することもできない。私はやっぱりこんなもんだ。これはこれで悪くないと思っている。
誰が読んだか絶対に知ることはない。でもちょっと覗き見する人が時々いるかも。
そう思いながらこんなことをブログに記録していつか誰かの「なんとなく」な記憶の一部になれたらなぁ、とも思っている。
自分はちゃんといる!という記録をひっそりと、でも確かに残したい気持ちもあるのかもしれないな。
平成の偽サブカル女の行く先はここら辺なのでした。