衝撃的なニュース
最近、びっくりすることがあった。
かなり衝撃度の高いニュースだったのでしばらくはガタガタゆらゆら大きく揺れていた。
きっと今もその最中なのだと思う。
そのうちに不思議な感覚を持ちはじめた。
「やるせなさ」という言葉がぴったりだと思った。
私が一番腹が立ってしまったのは、この出来事において「誰も悪くない」ということだった。
だからだろう。
思いがけないことが起こって予定が乱れ、思う存分イライラしていたい反面、それがなかなかうまく出来ずモヤモヤした。
言葉や態度にできるのはきっと氷山の一角なのだ。
見えないところに深く深くある。私も私の周りの人たちも、きっとみんなそうなのかなと思っている。
腹の奥底で何かが燃えている。
そんなときはいつもだったらそれが胸に上がってきて肺を通り、呼吸や言葉に変わるそのときに、私の中の濾過器みたいなものを通って涙になって感情が溢れ出す。
「これだ、これだ、私の本当の気持ちは」
そんな風に思いながら泣けることもあるのに、今回はどうもそこに難儀しているフシがある。
自分の中の仕組みがどこか故障しちゃったのかしら、と思うほどモヤモヤどろどろする時間がある。
でも、それがただの正解だった。
思いがけない出来事が起きて、私はただ動転していた。
気を確かに持ちたくて、揺れる自分を少しだけゆるせずにいた。
こんなときはガタガタ揺れてもよいのだと一生懸命に信じながらも、これ以上の衝撃を感じたくない自分もしっかりいて、少しでも踏ん張って立っていようとがんばっていた。
そう、がんばっていた。
きっと今も、がんばっている。
それが、愛おしいんだ。
私は器が小さいから、いつだってすぐに溢れてしまう。
すぐ溢れるなら溢れるなりに、もう潔くいつでも溢れていようと思っているここ数年。
やるせなさも、今回はちゃんと溢れた。
やるせないなりに楽しんだ場面もいっぱいあった。
衝撃に振り回されるばかりではなかった。
そしてそんなとき、じっと話を聴いてくれる人が私の人生にちゃんと居た。
これも紛れもない事実だ。
なんという奇跡なんだろう、と思った。
それがどれ程の力であるか、それを何度も実感した。ただただ、そんな人が居てくれることがありがたかった。
守ろう、と思う人をこころの中でちゃんと守ることもできた。
「元気でやってるかな、あの人のことだからきっと大丈夫。」
と誰かのことをこころの中で優しく振り返ることもできた。ちょっとだけ懐かしい涙が出たり、切なくなったりもした。
ごはんが美味しかった。
変な夢みた。
首すじが寒くなった。
明日がまたこわくなった。
お菓子をやけ食いして、夜ふかしして、朝起きたらやさしい人がメッセージをくれていた。
その向こうにある「なにか」がその人の愛情であり、優しさなんだと感じた。
その真っ直ぐさがやっぱり、相変わらず私は大好きなんだと何度も思った。
何も言わずに居てくれる人がいると思った。
その人らしくって、だからあたたかいなと思った。思い浮かべたらニヤッとしちゃうような、そんな「その人らしさ」だなと思った。
そう思って空を見たら、相変わらず世界がものすごく美しかった。
大好きな音楽が堂々と、格好よく聴こえた。
満足だ。
今日も生きててよかったなぁと思う。
私も、私に見える世界も、人も景色も、なんだかとても勇ましいなと思った。
明日も明後日も、一年後も五年後もきっと、私のことだからそう思うんだろうな。
違う感じ方をするのかな、それはそれでたのしみだ。
それでいいや。
安心してこわがったり、また愛したりしよう。
私はこの美しい世界をちゃんと知っているんだから。