ガッカリの真相
リアルなたった今の感情を書き出そうと思った。
最近のとある出来事が尾を引いて自分の気持ちに影響している。
その出来事をよく思い返してみると、
自分自身はその人に対してこうあって欲しいなと思う姿勢で居続けていたのだけど、相手からは自分が望む姿勢で向き合ってもらえなかった気がしてものすごくガッカリした、というのがだいたいの骨組みだ。
要は自分の思い通りにならなかった、ということなのだけど。
思い通りにならず残念だったなと、それはそれとしてちゃんと認めよう。
だけど自分のために、そのガッカリしたところをもう少し丁寧に掘り下げてあげたいとも思った。
もしかしたら自分も、やっぱり人間なのだから同じように丁寧に、いや自分が思う以上にもっと優しく共感されたかったのかもしれない。
積極性をもって「つらかったね」と気持ちの後押しをされたかったのかもしれない。
知り合いとか友達程度ではない、自分の心にとってとても深い仲の人だからそんな風に接してもらえることをどこか期待していて、そのアテが外れたもんだからとにかく感情がびっくりしてしまって、困惑したのだと思う。
自分としては、こんなにつらい目にあってここで相手にとーーーっても優しくされるはずだったのに、割と軽くあしらわれた気がしてこれは予想外の展開だ!と気持ちが混乱したのだ。
要は困ってしまったのだ。
私もやっぱり生身の人間なんだな、と思う。
優しくされたい。誰かに「そうだね、それはつらかったよね」と言ってもらいたいと思ってしまう。
それは悪いことじゃない。
ただ、誰かにそう言ってほしいということはすなわち、自分自身でそう思って言ってあげることを自分が欲しがっているということだ。
人からもらう前提のものではなくて、
自分がそう思ったのなら、やっぱり自分に優しくそう思ってあげればただそれで良いはず。
自分の思い方に自信がなくなってしまうときは容易く他人からそれを引き出して受け取ろうとしがちだけれど、本当に自分が望む答えは自分自身が一番よく知っている。
たまたま運良くそこで誰かに偶然優しくしてもらえることもあるかもしれない。
でもそれは本当に偶然にもその人がそうしたいと思ってそうしてくれた、というだけの話。
奇跡的でもあってすごくありがたくて、貴重なことだ。
でもそこを頼りにし始めてしまったら、それは違うのだろうなと思う。
やっぱり自分が望むものを、自分自身に与えてあげることなんだと思う。
ガッカリの真相は、そう思える強く優しい自分の反転した姿だった。
もし今晩、たったひとつだけがんばることがあるとするならば、それは自分の気持ちに正直になること。自分に一番優しい味方でいてあげること。それは大変だったね、つらかったねと欲しかった言葉を思う存分言ってあげよう。
そうここに書き記して、そんな優しい自分が確かに存在することを自分で確認すること。
ただそれだけだ。