祖父の命日に寄せて
今日は祖父の命日だった。
毎年特に意識しているということではなかったのだが、今年はいつもと違う強いつながりを感じた気がした。
自分がこれまで生きてきたという間違いのない事実、
断片的だと思い込んできた様々な経験の多くが自然に脳内でふわっとまとまった。
その時その時は何気なく選んでいるように思えたことも、実はすべてひとつにつながっていたのだ。
何かのきっかけやタイミングによってそれをしっかり意識して把握することもある。
最近、命について考えを巡らせる時間が多かったのでいいタイミングで祖父の命日が訪れてくれた感じだった。
祖父や祖母はちゃんと見ている。
自分の中で誤った選択をしたかもしれない日々も、それを自覚するからこそ今度はしっかりと本当の望みに正直に生きいていこうと思う自分も、そこまでの経緯も、きっと全部見ている。
誠実に生きてさえいれば、また自分自身が見たい世界とつながれるし、これを書いている感覚で言えば私はすでにつながることができている。
自分がアクセスしたいと思ったその瞬間から、形にはなっていなくともそれはもうひとつの現象なのだ。
だから目に見える繋がりだけが大事なわけじゃないのだと思った。
何かや誰かに思いを馳せること、気持ちを向けることだけで、もうつながりはできているのだ。
目に見えないことの方にこそ、本当の部分があるのだろうなと思う。
根拠はないけど、そう思ってもいいのだと確信した。
祖父の命日に対して今までそんな風に思ったことはなかったので不思議な感覚だ。
がんばってやってきたこと、何も無駄じゃなかったんだなぁ。
おじいちゃんもおばあちゃんもそう。
私もそう。
きっと、みんな、そう。
そんな風に思っている夜です。