夢と野心、性教育について。
私には昔、そこそこの野心があった。
きっかけは大学の授業で初めて受けたジェンダー論だった。
衝撃を受けた。
それまでそんな考え方をしたことがなかったから。それをきっかけにどんどん勉強していきたかった。
でも紆余曲折あり、その野心は一時期打ち砕かれたかに見えた。
最近になって、また少し自分の夢とか希望が見えてきた気がする。
私は幼児期や児童期からの性教育をがんばりたいのかもしれない。
自分の心と体を大切にしながら、相手の心と体も同時に大切にするって、どういうことかな?
そんなことをいつでも考えていられる人でいたいという気持ちがあるのだと思う。
だって私が子どもの頃はそこをちゃんと教えてもらえなかった気がしたんだもの。私だけかなぁ。
とても大切なことだと思う。
好きな食べ物が色々あるように、好きになる人も色々。「好き」という気持ちに理由はない。
それと一緒で食べたくない物があるときは
「今はいらないよ。あまり得意じゃないんだ」と言えるように。
遊びたくない内容なのに無理矢理誘われたら「その遊びはしたくないよ」ってはっきり言えるように。
他のことに関しては嫌だと言えるのに、
こと恋人関係になると途端にノーと言いづらくなる場面もあるかもしれない。
でも、そここそがコミュニケーションの肝でもあるかも、と思う。お互いが思いやり合っていて伝え方に誠実さがあれば、きっと通じる。
それでも通じなくて何かを強要されるようならその相手とはお別れしたっていいのだ。
実はこのコミュニケーションは一番難しいところだと思う。相手を好きだからこそ言いにくい…という気持ちがすごくわかるから。傷つけたくないし関係を悪化させたくなくて。
でも愛のある伝え方は必ずある。そのための言葉は絶対によく考えたいと思う。
「今はしたくないよ」と「あなたを心から大好きだよ」は両立すると思っている。
時にはうまく表現を選べなくてお互いに悲しい思いをすることもあるかもしれない。
でもそこは大きな問題じゃない。傷つかない方がもちろんより良いけれど、傷つくことよりもお互いに愛を持って伝え合えることの方が大切なんじゃないかなと信じている。
自分の意思表示はみんながしていいことだと思う。
子どもの頃からそれが呼吸をするよう当たり前に教育の一環であったら、少しは何かが違うかもしれないなぁ…と思ったり、こんなことは大それたことなのかしらとも思ったり。
そんなことがいつの日か叶ったらいいかもなーと夢想しながらやる気があるようでないような、適度に夢みて前進したい雨の日を過ごしています。