それでも私は、女が好きだと言おう
「それってつまりどういうこと?」となる瞬間はどこにだってたくさんある。
色々な思考を経て、行き着くもの。
一言で言うには難しい自分の人生。
一日の流れを伝えることすら時間がかかるのにその年齢分の思いがあるのだもの、それは当たり前だよね。
私が受け入れきれなかった部分は結局、
「女として生きなければならない」自分の一面に関してなのだと20代で痛感した。
かと言ってその面をなくす覚悟も度胸も、そしてその考えすらも、私にはない。
持ち続けるには白目を剥きそうになるほどの圧迫感。
毎月訪れる生理の怠さ。
社会的に求められる役割に応えられない不甲斐なさ、悔しさ、情けなさ、憤り。
どう足掻いても私はなんとなく、キラキラしていないのだ。
一言で言えば「ダサい」のだ。
私が勝手に思う「輝く女性」にはいつまでもなれっこない。だからもうやめた。
「輝いていること」は喜ばしいことかもしれないけれど、「輝くために」生きていくことはしたくない。続かない。
だから、地味でダサくて芋くさい自分でいるとすこぶる調子がいい。
いつだって私はイケてない。
その自分が一番、居心地がいい。
甲斐甲斐しく誰かのお世話をしたりするのも苦手だし、人の気持ちを察して器用に立ち振る舞うこともすごく下手。
そういう方面に関してはてんで不器用である自分をもう、潔く認めて生き出したら途端に楽になった。
私は、過去に私が勝手にイメージしていた「女」にはならなかった。
だけど、「女」である自分もしぶとく自分の中にいることも認めた。そして、その部分をこれからもちゃんと好きだと言ってあげたい。
ずっと愛してあげたい。とても難しいことだけど。
本当はそんな一面、どこかに脱ぎ捨てたいなと思う日もやっぱりある。
それでも私の大切な側面なの。
今の私をつくる「一部」なの。
自分を100%好きになることなんか出来ない。
完璧なんかどこにもない。自分の全部を好きになるなんて、無理がある。
それでも、その時できるメイクやお洒落やいろんな手立てでその部分すら出来る限り愛してあげたいんだ。
だから私は、「女の子が好きだ」って言い続ける。
私にとって、「好きになれない」私そのもの。
不完全なもの。
そして、とても大切なもの。