人生を楽しく愛したい!ブログ

人生遊び研究を本気でやってます。

マイケル・ジャクソンと私

 

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ある年の蒸し暑い日、私は大熱を出した。

きちんと数えればもう13年も前のことだ。

朝起きたら全身が怠く、熱を測ったらすでに38度近く発熱していた。

勤め先には急いで連絡をし、病院に行かなければと思うが準備をするのもひと苦労だった。

 

そうこうしているうちにだんだん頭痛も酷くなり、頭の中を火の玉がゴロゴロ回っているかのような感覚に襲われた。

一人暮らしだったため、どうしたものかと考えあぐねるうちに熱はどんどん高くなった。

お昼前までには39度近くまで上がった。

今が一体何時なのかとテレビをつける。

すると衝撃のニュースが飛び込んできた。

 

かの有名なキング・オブ・ポップマイケル・ジャクソンが死去したとのニュースだ。

 

嘘だろ、と思った。

マイケルが死ぬわけないじゃないか。

熱を出してるからこれは夢だ、と思った。

あいにく、それは現実だった。

 

私は高熱に浮かされながら、当時一番身近だった人に携帯で連絡をした。

その人いわく、電話中ずっとうわ言のように「マイケル死んだの、マイケルが死んだの」と繰り返していたようだ。

 

私にとってマイケル・ジャクソンはいつもどこかヒーローのような存在だった。

世界中に色々言われても完全無欠、というイメージがあった。

「スムース・クリミナル」が好きで熱狂したりしていた。

ゼロ・グラビティやムーン・ウォークをふざけたり本気で練習しまくった。

「ウィー・アー・ザ・ワールド」はサビを覚えてスター達と胸の中で熱を込めて合唱していた。

ディズニーランドに行けば「キャプテンEO」に何度も足を運んだ。

キャプテンEOがクローズすると知った時にはオリエンタルランドにお願いだから終わらないでと嘆願書を本気で出そうと思うほど惜しんだ。

マイケルは自分が寿命を迎えても生きてそうだな、とずっと思っていた。

からしばらくの間は本当に信じられなかった。

 

今でもふと、マイケルはどこかで生きてるんじゃないかと思うことがある。

 

パフォーマンスに絶対の自信を持ってステージに立つマイケル、ジャクソン5での明るい声、少し寂しげな目をするとき、帽子を目深にかぶったとき、

表情の一番見える場所(顔や手)は隠して、それ以外の体の軸の動きがビシバシ自信に満ちているから胸の内では何を思っているかわからない。

そんなポーカーフェイスっぷりが魅力的だった。子どもの頃からずっと見られる仕事だったからじゃないかな、と思っている。

堂々たるエンターテイナーであることと胸の内の孤独とか切なさみたいなところがまるで別人なのがスターの超格好いいところなのだ。

マイケルの色んな表情が好きだ。

 

なぜかマイケル・ジャクソンにとことんハマるムーヴがいきなり自分の中で巻き起こることがある。

今がまさにそのときだ。

 

やはり、私にとってマイケル・ジャクソンは永遠だ。

 

 

格好つけたい

 

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怖れずに書き出すと、割と好き放題やってきた人生だと思う。

だいたいにおいて自分の人生史にそんなに大したことはないのだが、大したことだと思い込みたい節はいつでもあるようだ。

26歳くらいのとき、自分を賢いと思いたがりどうしてだかやたらとデカい辞書を買ってしまった。

調べたい語句がある場合にインターネットなどに頼らずページをめくる古風な自分に酔いしれたかったものと思われる。

中途半端にサブカル好きを彷徨っていた自分らしい、実に浅はかな発想だ。

その後ほどなくして辞書は予想通りに単なる重量のある置物と化し、部屋の背景となった。

何かの役に立っているとすれば、仮にzoom画面などに写った場合にほんの少しでも知的に見えるかもしれないという淡い期待だけである。

しかしそこは流石の偽サブカル女なので、知的に見せたいために背景に辞書を置いている、あまつさえそんな自分を演出するために高そうな辞書を買ったんだとバレてしまうことがどうしようもなく恥ずかしい。

よって、現在に於いてその辞書は決して画角に映ることのない部屋の隅で物言わぬ沈黙の置物としての役割を果たしている。近ごろ日本語の調子がおかしい時が増えているので今こそ実用的に使うときかもしれない。

辞書の例はまだいい方で、ある時は詩人の顔をしてちょっといいノートにポエムや下手な絵を描き殴る、ある時は思想家よろしく考えに耽って誰かに話したくて仕方がなくなる。しかしそこまで詳しく語れるわけでもないので次の興味が湧くまでしばらく悶々とした膠着状態が続く。

いつまでも格好つけたがりな自分はどこにでも顔を出すのだろうと思う。もっとヤバイやつもいっぱいあるが今は思い出を直視できない。

ワァァと大声で叫んで枕に突っ伏したいことがこの人生に山ほどある。なんか本当すいませんでしたウワァァー!みたいな感じでとてもやってられない。あたしゃ情けないよと肩を落とすがそれが自分なのでもうどうしようもない。

生き方についてもそうだし恋愛の失敗なんかはそのオンパレードである。これは結構恥ずかしい。

格好つけたところでうまく格好がつかないタイプだからこの際泥臭く生きていきたいところだ。

格好悪く恥ずかしい部分にこそ、私の楽しいところがあるんじゃないかと最近は思う。

これからも、堂々と恥をかいて生きていきたい。

 

 

 

届ける気のないラブレター

 

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前に付き合っていた人と一緒に食事にいったときと自分のことを供養のために書こうかなと思う。

 

私は、実を言うと食事があまり得意な方ではない。

ごはんを食べることは大好きだ。

だけど、前に病気をしたことがあり、今は健康だがそれから胃腸があまり強くなくなったので、その日のコンディションによってはあまり量を食べられないのだ。これは未だにある種のコンプレックスでもある。

そんな自分が数年前、付き合った人とデートをすることになった。

食事を万全の状態で迎えたくて、一週間も前から念入りに体調を整えた。

ただ、楽しみたくて。

その人は、私が好きそうなお店を選んでくれた。その気持ちが本当にうれしかった。

お店に着き、私は浮かれていた。

たぶん、相手の人もちょっと浮かれてたんじゃないかな、なんて思う。

一人では絶対に食べないふわふわの三段重ねのパンケーキを頼んだ。結構有名なお店だったらしく、パンケーキは脳が溶けるかと思うくらい美味しくて舞い上がっていた。

私が美味しいと舞い上がると、ちょっとぎこちなく照れて笑う相手の表情を今でも覚えている。

 

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帰りがけ、相手の人はトイレに立った。

待っているそのとき、よその席から思いがけない言葉が聞こえた。

誰かのある点を珍しそうに、そして好奇心と含んだ笑いで品評するような内容だった。

ただ楽しかった席に、バシャっと水をかけられた気持ちになった。

一緒にいる人が今、席を立っていてよかったと思った。私と目が合うと、話していた人たちは気まずそうに目を伏せた。目を伏せなきゃいけないくらい、その人たちが恥ずべき内容なのだと思った。

そして同時にそう思うよりも強く、私の好きな人のこれからの人生に笑顔で優しい気持ちでいる時間ができるだけ多くありますように、と願った。願うだけじゃなくて、私が目の前にいるときは少なくとも笑って過ごす時間をたくさん作りたいと思った。それが付き合っている人かそうでないかは問題ではなくて、友人や知人、私の周りにあたたかくいてくれる人達みんなに対して自分がそう在れたらと思った。

本当に強く強く、そう思った。

 

一年ほど前にその人と私は別れたので、その人の目の前では実現ができなくなったけどその思いのベースは今でも変わらないなぁと思う。

誰かの心ない言葉があったとしても、その人がいま大切に思う人と、その人らしい過ごし方をしていますように。

伝えることをひたむきにがんばる人だったから、誰かからの誤解があったとしてもあの真剣な顔でどこかで、その人のやり方で、きっとがんばっているのだろうな、とも思う。

そんな人を好きになった自分を心強く思うし、

今でも大切な思い出だ。

幸せに暮らしていますように。

私はいま幸せに過ごしているから、私と私の周りに今いる人をこれからも大切にしてできるだけ笑って、泣いて、また笑って過ごしていこうと思う。

そうやって明日からもがんばろう、自分!

そんな自分へのエールをこめて、書き終わりとします。

 

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好きだったあの子との帰り道

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学生のとき、好きだった子とはじめて制服姿で桜の続く道を一緒に帰ったことを思い返している。今でもすごくきゅんきゅんする。

誰かに見られたらどうしよう、という気持ちと、ただうれしい気持ちで舞い上がってしまって、でもその子に笑ってほしくて、私はただいろんな話をした。

 

その子とはずっと同じ帰り道だったけど、ふたりで一緒に帰ろうねとは言えない何かがあって、すごくもどかしかった。

だけどその日は、放課後の教室で進路の話をしていたか何かのとき、流れで「一緒に帰ろっか、帰りながら話そうよ!」と自分から言い出したのを覚えてる。

胸は今にも張り裂けそうにドキドキして、ほっぺと首あたりがぽっぽと熱くなった。

その子は「うん」と言って、「自転車取ってくるね、正面玄関で待ってて」と言った。

この時が一番、心臓が高鳴った。同時に不安になった。現れないってことはないだろうけど、一緒に帰るとなったらなにを話したらいいんだろ?急にふたりで黙り込んじゃったりして気まずくなったりしないかなぁ。

でもそんなことはなかった。

私が冗談を言うといつもみたいに笑ってくれたり、なにかに驚いた顔をしたり、色々答えてくれるときの表情がいちいち可愛かった。

目が合うと息が止まるくらいドキッとした。

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桜が満開のときだった。

風が吹くと結んだ髪が揺れてすごく綺麗だった。ちょっと癖っ毛でふわふわした髪だった。

そして、ほくろがすごく色白の肌に素敵に映えてる子だった。目が澄んでいてすごく綺麗だった。

自転車をわざわざ押して歩いてくれるのがうれしかった。

連絡先もわからなくなったあの子、きっと元気にやってると思うけどどんな素敵な人になったんだろうな。

 

幸せな人生を送ってますように。

私の思い出の1ページ。


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遊んで暮らしてく

 

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笑えるって大事だな、とつくづく思う。

生きてると色んなことがドカドカ起こって賑やかだ。

面白くないことまで次々に起こる。

最近の私は、その時そのときで人と色んなことを適当に笑い飛ばすことができている。

深刻になりすぎることもなく、でもなにも考えてないわけじゃない。

考えてるからこそ、本音で人に話せたりもするのだ。

 

くだらないことを真剣に考えるって高等なことだと思う。どんなことも真剣にふざけて笑えることは私の人生においてかなり重要なキーだ。

いつだって真面目にふざけていたいし、いつまでも考えるバカでありたい。

真剣に人生を遊ぶためには、まず真剣に生活する必要がある。

朝起きるのがめんどくさかったら、じゃぁ20分早く起きるゲームにしよう。勝ったら朝ごはんは好きなものね。まぁ別に勝たなくても好きなモン食べるんだけどね、くらいのテキトーさで、真剣に遊びながら生活をよくしていこうと思って実行している30代である。

 

移動がだるいなーと思ったら一日中、スペースレンジャーになった気分で過ごすとか。

「スターコマンド応答せよ!こちらガンマエリア、セクター4。これよりバーティカル・トランスポーターに乗り、反重力移動する!」と唱えてエレベーターに乗る。実際に、本当に真剣にやるところがミソである。これがなかなか難しいので、いかに真剣さの中に集中して入り込めるかが勝負だ。ここに他人の目線など入り込む余地はない。そんなとき、自分は人生を面白おかしく生きているなと思えていろんな悩みがちょっと小さくなったりくだらなくなったりする。

生活するってめんどくさい。何がめんどくさいって、とにかくめんどくさい。

めんどくさいの中に、生きる上でものすごく大切なものが詰まってる。だからめんどくさいけどやれるとこはちょっとだけ丁寧にやっていきたい。

それが全部遊びの要素でできていたらどんなにか楽しいだろうと思う。

私は、やっぱりくだらないことで一旦は腹の底から怒って地団駄踏んだり、とにかくしょげて悲しんだりしてから、そのあとはいろんなことを笑い飛ばして元気に生きていきたいな。

 

人生をもっと楽しい遊び場にしていこうと思う。

 

 

ワルモノ

 

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疲れていると時々世の中が窮屈に思えることがある。

最近気づいたことは、「見た目からしてめちゃくちゃ悪そうなワルモノキャラ」が表現の場からなんか減った気がするってこと。そんな気がするだけで、実際は減ってないのかもしれないけど。

「悪そうに見えるけど実はいいヤツだった」とか「いいヤツそうに見せかけておいて実は黒幕だった」とかは見かける気がする。

だけど、黒いマントを纏い杖なんか持って、玉座に座って悪事を目論み高笑いするヒールキャラが自分の中になんとなく足りない。ああいうキャラは作り物とわかっているからこそ観ていてスカッとするときもあるのだ。

「潔く悪!」って感じがいい。

情けも容赦もない。魅惑的だ。

これは一体なぜだろうと思うと、おそらく、いや確実に自分のどこかに住んでいるであろう「邪」な部分が隠すことなくむき出しになっているからなのだ。高笑いして堂々と「我こそがワルモノだー!」と言い切ってくれることにある種の爽快さを感じられるのかもしれない。

作り物の世界だとわかっているから、強調された悪役を楽しむことができるのだ。

 

「人は見かけだけではわからない」と思って生きようとしてはいるが、邪悪な部分をキラキラ、ふんわり隠される感じを受け取ると疲れることが増えてきてしまった。

無難なやり取りより、あけすけに色々を打ち明けられる方が私は気楽なのでそういった性分だからかもしれない。

 

過去の生い立ちがこの人を悪にさせてしまったのだ、などのエピソードも楽しんではいる。しかし、悪事をはたらくことがただ楽しくて仕方ないといった具合のヒールは最近いったいどこにいるのか。

「こいつ“ワル”って顔してんなぁ!」と思いながら観て「ちゃんとワルでした」って展開を求めてる。
人は多面的な要素を持つとわかりきった上で、その一部をキャラクターにして強調して描きました、みたいな表現も時々はお目にかかりたい。水戸黄門フォーマット的な。

 

ワルモノってすごい。

世界征服のために日々研鑽を積み、研究を行い、検証し、確実に実行して成功しようとしているのだ。動機はさておき、相当な努力家である。その上孤高で賢い率が高い。ソロ活レベル高すぎだろ。

現実離れしたファンタジーの世界だからこそ、「うひゃー、こいつぁー見た目からして本物のワルよのぅー」と言えるヤツに高笑いしてもらいたい。

 

そういうキャラクターさえもキラキラパッケージの世界にふんわりと消えていったのならば、少しさみしい気もする。ワルモノらしいワルモノが出ている作品を自分が観ていないだけなのかもしれないけど。ワルモノを観てスッキリしたいと思うなんて疲れているのかな?とも思う。

まぁ細かいことは置いといて、私は割とヴィランズが好きです。という話。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

トイ・ストーリーを観て泣く

 

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ピクサーの「トイ・ストーリー」が公開された時、私は小学生だった。

高学年に差し掛かる頃に校内にパソコン教室という部屋がはじめて設置され、Windowsが20台ほど置かれた感じだったかなと記憶している。その時はとにかく熱狂した。

OSはWindows 95でネットワークはInternet ExplorerADSLでなかなか繋がらないもどかしさをいつも抱えていた。

昼休みはパソコンを友達何人かで囲み、20分ほど待つがようやくネットが繋がる頃に休み時間が終了することが常だった。でも何度もトライしていた。

ディスクオペレーティングシステムで「フロッピーは大切に」ととにかく言われていた気がする。フロッピーは先生が管理してくれており、班ごとにラベルにグループ名を書いたりしていた。

パソコンについては全然詳しくない上に記憶が合ってるかも適当で定かではなく前置きがかなり長くなったが、それくらいの時期に公開された世界初のフルCGでありピクサー初の長編映画が「トイ・ストーリー」である。

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ストーリーを通して何もかもにおったまげ、ただただ感動していた。

始終、「これ全部CGなんだぜ…?わかってるけど、CGなんだぜ?」という気持ちしかなかった。Windows97期のイルカのカイル君にすら、ろくに何も答えてもらえなかった自分にとっては、言葉に表せないほどCG技術のすごさに圧倒された。当然のことながら脚本がまず素晴らしく、監督のジョン・ラセターはやっぱすごい、しか言えない。ジョン・ラセターについてはあとでまた言及するが、彼の監督したピクサー作品は個人的にはすごく好きだ。今はもうピクサーの人とは言えないが、アニメーションについてはヤベェとかスゲェしか言えない自分の語彙力のなさが悔やまれるほどだなと思う。

OS Macintoshについては「トイ・ストーリー」がきっかけで言葉だけはよく認識するようになった。スティーブ・ジョブズが業績不振でApple社から追放される形で退職したくらいの時期だ。

ジョブズApple解任後、ルーカス・フィルムからピクサー・アニメーション・スタジオを設立してCEOになり、ディズニーが配給、ピクサーが巨額投資という形をとって監督はジョン・ラセター、脚本はアンドリュー・スタントンで「トイ・ストーリー」を公開、そこら辺の流れを思いながら観ると尚のこと色々アツい。

ジョブズは同時期にOS NeXTを開発していて、Apple社にNeXTを売却すると同時に再度Apple社CEOとなってMac OS Xを開発、発表へ、みたいな流れだと思う。

先述したジョン・ラセターは数年前にピクサー社内において女性社員へのセクハラ行為により解任されている。

ラセター監督のしたことは当然、許されることではないと思う。でも私は「トイ・ストーリー」が好きだから、2、3、4と作品を続けて観てきた。3まではジョン・ラセターへの告発がなかったので事実を何も知らなかったけど、4は色々を思うと複雑でしばらく観ることができなかった。

4においては、個人的な勝手な解釈だけれどジョン・ラセターに対してのピクサーの卒業宣言みたいなものなのかな、と思ったり、いろんな社会問題を考えさせられる。

だからかもしれないけど、私は小学生のときに感じた純粋なあの「トイ・ストーリー」初期の感動を忘れられない。

世界初のフルCGで長編だなんて、どんな人が作ったのか?すごい人に違いない。アニメーションがすごいのはわかるけどキャラクターひとりひとりの設定がこと細かくて、どのキャラも愛さずにはいられない。

おもちゃはやっぱり、私がいないところで動いたり喋ったりしてるんだ!とワクワクした。バズの偉そうな勘違いっぷりにも苦笑する。いつしか忘れてしまった自分のおもちゃ達に胸が痛んだりもした。

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映画の中で、現実を知って気力を失ったバズにウッディが本音で語りかけるシーンはやっぱり泣ける。

「なんでアンディがあんたを欲しがったって?ひと目見りゃわかるだろ!あんたはバズ・ライトイヤーだ!あんたみたいになれたらって、みんな思ってるんだぜ?輝く翼、暗闇で光るレーザー、イカしたセリフ、ヘルメットだってプシュッと開いて…最高にクールだ!それに比べて俺はダメさ、俺みたいなオンボロ、アンディにはきっともう必要ないんだ」って言う。

何もかもを持っているかのように見える人のことが苦しいほどに羨ましくなっちゃう気持ちがわかるから、私はこのシーンが本当に大好きだ。

 

ウッディのすごいところは、おもちゃなのにすごく人間臭くて、でも絶対に誰も見捨てたりしないこと。そして、アンディをいつも思ってる。アンディの喜びがウッディの喜びだと感じているところ。

4までの流れも全部含めて、あらためて最初の「トイ・ストーリー」を観るとボロボロ泣いてしまう。純粋に、自分の過去の色々と重ね合わせたり公開当時に持った強烈な興味や思い出とかを含めて泣いてしまう。

 

「俺よりもすごいやつはたくさんいるよね

だけど、俺よりも君のことを気にかけるやつはいないよ ときが流れても変わらないもの 俺たちの絆 君は友達 いつも俺がいる 君のそばに」

って歌も、好きだ。思い出があるから、ただ好きだ。

今日はどうしようもなく長い文章を書いてしまった。
でも好きなことを好き勝手に書けて、よかった。

 

 

 

 

 

 

やりたいことが果てしなくある

 

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やりたいことがありすぎて、実現したいけど真剣だからこそ色々考えたりもして、コンセプトとか色々なテーマも浮かんで、それをただ楽しんでるというのが最近の私。

あれもこれも!って気持ちになるけど、アクセル全開で挑むんじゃなくて穏やかでありたい。

いつもいつも全力だと燃え尽きちゃうことを過去の経験からよくわかってるから。

私には日々の中に、そして未来に楽しみがいっぱいある。

子どものときのワクワクした遠足前みたいな気持ちが自分の胸の中にいつもウズウズと動き出したがってるのを感じる瞬間が毎日いっぱいある。

私って生きてるんだ!って心底思う。

一番うれしいのは、きっと今思い浮かべてるその夢は必ずなんらかの形で実現できるだろうなという、自分への信頼感があること。

そして、それを否定せずに聴いてくれる人が私の周りにちゃんといること。とってもありがたいこと。

 

私が今日ここに生きてるのは当たり前のことじゃない。今、形としてつながっていなくても私の今と誰かは確実につながってる。

それが今の私のやりたいことにもつながってる。

人はやっぱり、ひとつになれるのだろうなと思う。

私の中で、そうなる。

そのことが、ただうれしい。

 

 

そうするしかなかった自分

 

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最近、とあることで私はおそらく軽い「燃え尽き」に近い状態を感じていた。

物事の展開になかなかついていけなくてちょっと疲れてしまっていたのだ。

人生には唐突な別れや物事の終わりがくることはわかってはいたけど、いざその状況が自分に訪れるとその喪失感はやはり想像していたよりも大きい。

喪失と向き合うことはおそらく、誰もが簡単にはできないことなのでは、と思う。

それでいいのだとも思う。

でも、大きな別れを経験して尚、また笑い合えるよろこびがあることも経験上、知っている。

完全に癒えるまでにはちょっと時間がかかるかもしれないけど、今、たのしくて笑ってる。

それでいいじゃないか、と思えることが人生の色んなところにある。

私は、失ったものばかりじゃなくちゃんと「今あるもの」にいっぱい囲まれてる。

 

それが「あるかどうか」は、私が見ようとするかどうか、そこにしかない。だから、私は今あるものをもう一度、まっさらな気持ちになって見たい。今見えていないものにも、もっと気づいていきたい。

「あるから、あるの。」それで充分だとも思うし、もっとある気もして欲張りだけど、でもそれも人間らしくて明るい未来が見えそうな、今がもっとよくなるイメージ。

たぶんそれは、信頼とも言えるもの。希望でもあり、応援でもあり、私自身の中にある力でもあるもの。

 

そのときそうするしかなかった自分と相手との、自分なりのこころのつながり方をこれからもただやっていくだけなのだ。

目に見えないからこそ力がある信頼と、確かにある私の中の愛を感じて、何度でもしっかりと世界を見ていきたい。

その時そうするしかなかった自分を、たった今から、またゆるしていきたい。そして、また愛でつながっていきたい。

 

 

 

 

 

 

 

またね過去、ハロー新しい世界

 

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あれっ、何やってもうまくいかねーな

なんでだ?ちょっとあの人に相談してみるか。

なんかうまく話せなかったなぁ、どこからこうなったんだっけ?

こういう感じに陥ったときはいつも、できるだけその流れには抗わないようにしてます。

私の場合、大きな出来事によってよりも、日常の些細な、ほんの小さなストレスが重なることによって一気にプツンと糸が切れたようにパワーダウンすることの方が多いです。最後のプツンの直前は「また洗剤の詰め替えするの忘れた、人生って本当めんどくさい、もうやんなっちゃった。」って感じ。

どでかいショックの方が、びっくりの勢いでその場は割と乗り切れちゃうってものです。私にとって地味なストレスこそ、かなり手ごわい強敵なのですね。

どん詰まりになるとこれといった解決策ってだいたい見つかりません。

だからじたばたするよりも、もう流れに任せて停滞させてた方が波風が立たなくてよい場合もあります。

 

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今、私の前にある新しいクールは自分としてはだいぶ「なにか」が開けてる感じがします。

「話してみたい」と思う人とは本当にいつも楽しく、気持ちよく話ができるのです。

そして「ん?」と思うこと、それを直感というのでしょうか。あれはやはり、なかなかに頼れるヤツなんだなということもよくわかります。

どう見てもその物事は「よい」体裁や格好をしている風なのに、わけもなく私の肌が「ん?」とアンテナを張るものごとって確実にあるなと思うのです。明確な線引きがあるわけではないのですが、私の感覚が教えてくれるもの。

ただそいつを信じてやればいいんだな、と最近は強く思います。いつもより少し注意しながら行動するとか、今はやたらに自分の大切な情報は出す必要はないな、自分の安全の範囲を守っていけばいいよね、と思ったりしながら。

なので、人生は思っていたよりも意外とわかりやすいものなのかもしれません。自分自身をただ信じていけばいいだけの話なのだから。

その自分すら見失ったかのように思えるときは、できるだけ凪のイメージでいよう。流れに任せていれば、きっとなるようになるから。

その先を信じることができるから、この人生に自信があると胸を張って言えます。

今、現在の私は明るく開けた大海を目の前に帆を張っている船のイメージです。シンプルに調子がいいってことですね。たいへん喜ばしいことです。

まぁ今後も当然、色々な天気があるでしょうが、手放すものは思いきって手放してその門出を祝い、私自身がしっかりと舵をとってこの大海原を堂々といけばよいでしょう。

思い通りにいかないから、おもしろいのです!

だからつまりは、順風満帆。