「ホーム・アローン」への熱い思い
12月が近くなってくると私は毎年、何度も何度も繰り返し「ホーム・アローン」を観る。
12月25日まで、或いは年明けまで、何度でも観る。
私の毎年の恒例だ。
人によっては「ラブ・アクチュアリー」だったり「グリンチ」だったりするかもしれない。
私はこの時期は「ホーム・アローン」である。
私にとってこの映画は「私の夢」そのものだ。
家とは、帰りたくなる場所のことを言うのだろう。
「帰ろう」と思える安心感がある場のことじゃないかなと思う。
だれかと過ごしていると当然、その人の煩わしさとも一緒に過ごすことになる。いくら愛しているからといってその煩わしさが帳消しになることなんてないものだ。
煩わしいものは煩わしい。
それが日常となるとうんざりもしてくる。
でも理屈では説明できない愛情みたいなものが常に胸の奥底にあって、相手の何もかもをそれで包み込めるような感覚も持ち合わせていることもまた確かだ。
旅行前の忙しいときにケビンの母親がケビンをきつく叱りつけてしまったのも一人の人として当然だろうな、と思う。家族全員がケビンを「置き忘れて」旅行に出発したことも。
家族だって人間だから、間違うことだってきっとあるんだろうな、なんて思っている。
私は「ホーム・アローン」を観ているといつもドタバタのコメディシーンになればなるほど泣けてきてしまう。
家にひとりきりで過ごすことになったケビンが勇ましく色々なことに立ち向かっていくのはただ単に大人ぶりたいからだけではなく、きっと「やるしかない」からでもある。
だがしかし、いざひとりで生活を始めてみると頼れる人がすぐそばにいないということへの心細さはどんなにか身に染みるものか。
ケビンの心細さを思うとそれだけで泣けてくる。
ケビンはいつだって一生懸命だし、それでいて冒険心に溢れてる。
たったひとりで自由にはしゃぎ、家中で禁止されたありとあらゆることをやって回る姿、
自由を謳歌するだけではやっていけないことに気づき、ひとりで生活していかなければならないことを漠然と実感してから買い物に向かうところ、
うっかり万引きしてしまった歯ブラシを持って全力で逃げるシーン、ひとりぽっちになってしまったことを実感する姿、
凍える心に暖を求めてふらふらと吸い寄せられるように教会に入っていくところ、
意を決しおもちゃを並べてケビンなりに勇敢に泥棒に立ち向かっていくシーン、
すべてに胸を打たれて泣けちゃうのだ。
それからの泥棒とのドタバタシーンにはもはや笑いなんだか涙なんだかわからない感情に胸をぐちゃぐちゃと支配される。
泥棒にしても、大人がこんなに体を張って全力でバカをやる映画って最高だな、とつくづく思う。まさに「全力」で体当たりしている感じ。
みんなが一生懸命につくっている、ということをイメージするだけで泣ける。
「ホーム・アローン」はそこがいい。
まだCGとか今みたいに発達していなかった時代だから、あの巧みなイタズラを利用したコメディ劇は役者、画角、大道具、小道具、作り手すべての綿密な計算と脚本により計画をもってタイミングを合わせた動きのたまものだ。
一瞬でも映像内にカメラや裏手が映り込むことのないよう考え抜かれている。
「人の手」によって作られている感じがとてもよい。
あとからCGで消す、という作業がない時代の映画はすごいと思う。
画角、反転、早回し再生、効果音などが素晴らしい活かし方になっていてただただ感心する。
あのテンポ感がたまらない。
「ホーム・アローン」には私の夢が詰まっている。
「こんな風だったらよかったのにな」と思うもの。イメージであっても、私のこころがそう望むもの。
そしてこれから「こう在れたらいいな」と思うものも、全部。
寒さと温もり、
キラキラした彩りと人間の「さが」がどうしても持ち続けてしまう誰かへの望み、さみしさ、それゆえの過ちやゆるし、希望、笑い、愛情が映像に収められている気がする。
長くなったが、私は今シーズンもまた何度もこの映画を再生するだろう。
言うまでもないのですが、音楽も最高で大好きです。あとは、絶対に字幕派です。
「ホーム・アローン」への熱烈な愛はとりあえず、ここまで。